高橋さま はじめてメールを差し上げます。最近知人によって、小生が関係した翻訳に ついて、いくつかの指摘がネットワーク上でなされていると教えてもらったの で、はじめて高橋さまのサイトを拝見いたしました。さまざまの不備が翻訳書 の出版にともなうことは、出版社も翻訳者も限られた時間の中で仕事をしてい る以上、避けがたいことです。その意味で、後日の訂正のため、あのように不 備のご指摘をいただくのはありがたいことです。お礼申しあげます。それとと もに、以下に、感想などを述べさせていただきます。 まず "High Elves of the West" についてはご指摘のとおりです。後日機会 がありましたら改めたいと思います。 次に、拙訳でさまざまの種類の存在を人間であるかのように呼んだりしてい ることをご指摘ですが、これは、あの物語の中ではすべての者が疑似的に人間 のようにとらえられていると感じたので、そのように処理しました。ご指摘の 箇所ですが、トールキン自身がエルフのことを "people" と呼んでいて、これ はやはり普通なら人間にしか用いない言葉です。つまりトールキンは、読者が やや抵抗を感じる言い方を、わざとしているのだと思います。(現に、ゴブリ ンのことを "boys" と呼んでいる箇所は、けっきょく変更しなかったわけです)。 したがって、そのままストレートに訳した方がむしろよいと感じました。しか し、たしかに、「エルロンドのところの人々」とでもした方がよかったでしょ うね。 「食事が日に二回」というのは、たしかに、まずかったと思います。「食事」 と書きながら、その他に、breakfast, supper, tea(これは軽い食事です), そ れにおやつは何回食べるのだろうなあ? などと思っていたような気がします。 しかし日本語で「食事」と言ってしまうと、それらを含めての話になってしま い、へえ、日に二回しか食物を口にしないのかと受け取られてしまい、それで はまずいと思います。とはいえ、「ごちそう」という語のニュアンスが正しい のかどうかはやや疑問です。とにかく、一日のうちの breakfast, supper, tea などに比べてやや本格的な、中心となる食事が dinner というだけの話で す。例えば、イギリス人の同僚と、夕方、近くのそば屋に行って安いそばを食 べようなどというときには、"Let's have dinner at..." などと誘ったりす るわけです。けっして「ごちそう」ではありません。ただし通常では dinner は日に1回というのが常識なので、日に二回取るとなると、へえ、くいしんぼ うだなあ!と軽い驚きを与え、そこに言うに言われぬおかしみがただようわけ です。しかし、さらに考えを進めて、現世肯定的なホビットなら日に二回豪勢 な「ごちそう」を食べているはずだと結論するなら、誇張を含めた意味で「ご ちそう」でもよいかもしれません。 「クリスマス」も悩んだところです。これもうっかりミスというわけではな く、悩んだ末に、処理仕切れず残してしまったという感じです。原文には、 「遠く離れている家族が集まってきてお祝いするクリスマス」という気分が濃 厚に感じられます。英米の「クリスマス」には19世紀の作家チャールズ・ディ ケンズがこのような楽しい家族的クリスマスを描いていらい、そのような連想 のはたらくものとなりました。したがって、ただ、季節や時期を示せばよいと いうものでもないという風に、訳しながら感じていましたが、時代錯誤の点も 考えるいっぽうで、それとともに、日本語で「クリスマス」と言った場合に、 どう感じられるかが問題ですから、ストレートに「クリスマス」と訳してしま うのはどうかなあ...などと悩んだわけです。が、これがそのまま残ってしまっ たのは、確かに不備ではあります。原語では Yule-tide という語が用いられ ています。これはもともとケルトの時代にさかのぼる冬至の祭のことでしょう。 いずれにせよ、ホビットの時代はそれよりももっと以前のことだと思いますが... 「シルス」。名前の発音については、今になれば変えた方がよいと思われる ものが、このほかにもあります。たとえば「ソーリン」は「トリン」とすべき だと思います。しかし、その一方で、トールキン自身も HOBBIT のころは、ま だ決定的なかたちの発音体系を持っていなかったのではないかと思います。第 一、かなりのドワーフの名前が英語風です。固有名詞の発音だけではありませ んが、後にトールキンが考えた体系なり枠組なりを、すべて当てはめなければ ならないかどうかは、意見の分かれるところだと思います。トールキンは『指 輪』の展開など頭になく、自分の子どもを楽しませることだけを念頭におきな がら、HOBBITを書いたのではないでしょうか? そのため、『指輪』との矛盾 や齟齬が時々感じられます。たとえば「ゴクリ」は、『ホビット』と『指輪』 では原文を読んだ印象がまったく違っています。命がかかっているとはいえ、 「謎々」を互いにむかって掛け合う牧歌的でおとぎ話風のゴクリと、『指輪』 に登場する、もっとリアルで陰険そのもののゴクリは別人のように、小生には 感じられます。 Something is the matter with you! You are not the hobbit you were! について、「ガンダルフがビルボの成長に感じ入っていることが...」とお書 きですが、これは誤解ではないでしょうか? ガンダルフは、単純に、中年の おじさん然となったビルボをからかっているのだと思います。「違うぞ、違う ぞ! 本来の君はそんな者ではないはずだ!」というからかい半分、非難半分 がこもったセリフです。(少なくとも、もとの表現、文脈ではそうとしか取れ ません)。これの訳として、突然あらたまった言い方で、相手をからかい半分 にたしなめているといった感じが出ていなかったとすれば、訳者の失態です。 ちなみに、原文のガンダルフの語り口では、皮肉なユーモアがとても目だって います。以前にイギリスBBCで製作された連続ラジオドラマ(カセットテー プで販売されています)でも、ガンダルフは、ビルボをからかうような、かな りきつく、まるで早口の若者のような喋り方をしていて、はじめて聞いたとき 驚くとともに、白髪の老人でゆっくりした喋り方をするはずだなどというよう な先入観を見事にうちくだかれました。これは、なにも、BBCの解釈が絶対 だというわけではないのですが、そのようにも解釈できる作品、人物像である ということが言いたいわけです。このことは、『ホビット』に付けられた各国 の挿絵を見ても、とらえられているイメージが実にさまざまであることからも、 納得されるのではないでしょうか。さて、1997年以前には、HOBBIT の日 本語への翻訳は一種類しかなかったわけですが、翻訳というのは原文を翻訳者 がいかに解釈して、それを日本語に移すかという問題ですから、さまざまの提 示の仕方があってよいのではないでしょうか。小生が原文を読んだかぎりでは、 少なくとも HOBBIT の最初の数章は、登場人物の動き、文体の両方で、子ども を喜ばせるためのコメディ的な仕掛けが、いっぱいに詰め込まれています。ま た、ごく平凡なイギリス人が読むと、「奇妙な英語だ」というほど、妙に凝っ たみたいな、無理な冗談をいってるみたいなところもある文章です。小生の場 合、そんなニュアンスを漏らすまいという意識が強すぎたかもしれません。初 期のトールキンには読者を喜ばせようというサービス精神にあふれたような雰 囲気があり、ついのせられてしまいました。 すでに翻訳のある作品を世に出す場合、既訳のものを最初に読んだ読者はそ れによって固定的なイメージができてしまって、「こんなはずではない!」と 感じ、憤るかもしれません。それは小生にもよく分かります。小生は『ホビッ ト』のあと、『赤毛のアン』を訳しましたが、世の『赤毛のアン』のファンな るものは、モンゴメリファンというより、村岡花子ファンなのだということを、 いやというほど思い知らされました。また、小生自身を例にとっても、子ども のころ必死になって読んだアーサー・ランサムのいくつかの作品を神宮輝夫以 外の人物が訳したりしたら、神聖なものを汚されたような気持になってしまう だろうと思います。しかし、その一方で、よく考えてみれば、我々の作品なり 作者なりのイメージは翻訳によって作られているわけであり、それがもとの作 品なり、作者を忠実に伝えているという保証はどこにもないわけです。とすれ ば、たとえば、今までモンゴメリだと思っていた人物は、本当は村岡花子だっ たんだ!と目から鱗が落ちたような、すがすがしい気持になることだってあっ てよいわけです。人生は、そのようなすがすがしい驚きに満ちているからこそ 楽しいのではないでしょうか。大げさなことになりましたが、話をもとに戻す と、HOBBIT の翻訳に際して、小生は自分なりのアンテナにひっかかってきた 意味、ニュアンスをもれなく表現しようとしたわけで、決して恣意的に改竄し ようなどとしていないのは、言うまでもありません。もしも原本をお手もとに お持ちなら、固有名詞などよりも、「読み」という点に注目されてさまざまに 比較してご検討されれば面白いと思います。 さて、このことで皮肉を言われたら困りますが、小生は翻訳を行うときには、 原文のニュアンスをできるだけ読み取って、それを分かりやすい日本語で伝え たいと思っています。表現の裏側には感情的ニュアンスが必ずただよっており、 それを汲み取って訳文に組み込むのが自分の義務だと思っています。ときにそ れが過剰となり、不自然に感じられるところもあるかもしれません。過去の例 に学んで、よりすぐれたものが出せるよう心がけたいと思っています。しかし、 『ホビット』については、既訳のものとの比較の上で「誤訳」が指摘されてい るので、あえて言わせていただきますが、既訳のものは、たしかに古風な日本 語に読ませるものがあり、その点では小生など及ぶべくもありませんが、日頃 イギリスの小説などを読み、教えている者の目から見ると、雰囲気などを誤解 されている部分があるのではないかと思います。事情にくわしい、さる大家に よれば、『ホビットの冒険』がはじめて出版されたとき、翻訳者が英語の専門 家でないというところから生じる、明らかな語学的な誤りが山のように指摘さ れ、岩波でも対応に苦慮されたとのことです。これは、その筋では有名な話の ようです。 人さまのことはともかく、誤訳は正さねばなりません。お気づきのことをご 教示いただければ幸いです。また、若気の至りとでも言うべきか、「あとがき」 ではあらずもがなの鼻息の荒い文章を書いてしまったようで、それによって傷 ついた方々がいらっしゃったかもしれません。お互いに、言葉遣いには気をつ けたいものです。 山本史郎